8/14~16に公開された森ノ宮遺跡展示室に行ってきました。
もう半年ほど前から楽しみにしておりました。やっとのこの日です。
年に数日のみの一般公開
はっきりしたことは分からないんですが、恐らく毎年、春季・夏季・秋冬季の数日間のみ公開されているこの遺跡。
そして時間も11~15時の間と短い時間です。
私が、大阪に縄文遺跡があると知ったのは今年のことです。
そして、それは春季(3/2)公開が終了した直後でした。
残念!次は夏頃に開催される予定だけど、未定。
ひと月ほど前から情報公開となるとのことでした。
実際には6月頃に日程が発表されました。
絶対行くぞ。
いよいよ訪れました 外観~展示室
遺跡がある場所というのは、森ノ宮ピロティホールという多目的ホールの地下です。
普段は演劇などのイベントが行われていて、お客さんがたくさん訪れています。
その施設の地下に展示室があるとのことです。
いざピロティーホールへ行ってみると、入り口付近にスタッフの方がいて誘導してくださいました。
今回は3日間の公開。(前回の春と冬はそれぞれ一日のみだったようです)
後で分かりましたが、 の黒いシルエットの女性はマダム・モリコさんと言います。
のちほどお話します。
上記掲示より以下引用:
縄文時代後期~弥生時代中期にかけて形成された貝塚で、東西45m、南北100m、厚さ約2mの規模をもち大阪府内では最大である。これまでの調査で子どもを含む18体の人骨も見つかっている。
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009688.html
森の宮貝塚【大阪市顕彰史跡第196号】
市立労働会館構内で各種土器片が発見されて付近に遺跡の存在が推定されていた。昭和46年、同会館の新築に伴った学術調査の結果、大阪では数少ない貝塚が見つかった。貝塚層は、下層部縄文期は海水産マガキが上層部弥生期は淡水産セタシジミが主で、これからも大阪平野形成の順、河内湾-河内潟-河内湖へと変貌していく様子がわかる。また縄文後期~弥生期の貝層から40歳以上と推定される男性屈葬人骨など18体と生活用具が発見され、これから埋葬形式、あるいは一時期遠く関東・東北地方や九州西北部と交流したことが判明した。約5,000年前の生活様式は、照葉樹林のひろがるところでの狩猟と、全面にひろがる水辺での漁労が中心で、日本各地から移動する縄文人の集散の地にもなっていたと推定される。
https://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000270518.html
以下大阪市Webサイトより引用:
森の宮遺跡に縄文時代後期から弥生時代中期にかけて形成された貝塚は、河内湾から河内潟への古地理の変遷を示すものとして、大阪の歴史の草創期を語る際に常に紹介される。
1970年代に行われた発掘調査では、通常では遺存することのない当時の埋葬人骨が貝塚という特別な土壌環境下で多数検出されている。
これらの人骨は縄文・弥生時代の大阪に暮らし、この地で生涯を終えた人々のものであり、調査当時においては「最古の大阪市民」などとマスコミに取り上げられ話題となった。
また出土人骨からは性別、死亡年齢、労働の痕跡などを知ることができ、当時の生活のようすを生々しくうかがうことができる。
出土人骨の大半は解剖学的調査のため、各部位ごとに取り上げられているが、第4次調査2号人骨の埋葬土壙墓(どこうぼ)だけは展示資料として当時の埋葬状態のままで切り取り保存されている。
また、装身具として加工された第4次調査8号人骨は、縄文・弥生時代の死生観の一端を示すものといえる。人骨製装身具が完全な状態で残されているのは、全国的に見ても希少性が高い。
階段を下りて地下へ行くと扉が開いています。
展示はこちらの1室のみです。
展示物
縄文~弥生時代(貝塚・人骨・土器など)
貝の化石にさわってみる
展示室の入り口付近にいきなり貝の化石が置いてあります。
なんと本物の化石を触ってみることができます。
見た目も触りごこちも大昔のものとは思えません。不思議です。
マダム・モリコ 縄文時代の森ノ宮人
森ノ宮遺跡で出土した縄文時代の人骨です。
通常、人骨というのは化石として残りづらいのだとか。
日本の賛成土壌では分解されてしまうから。
でも、貝塚の中にあり、アルカリ性であったことから運よく残ることができたらしい。
この時代の女性の平均身長が147~148cm
マダム・モリコは 推定148cm。
縄文時代の人たちは短命だったと言われることもあるけれど、実はそんなこともなく
60歳代くらいと思われる人骨も比較的出土しているとのことです。
ちなみに年を取って歯が抜けて、しばらくするとその穴もふさがってくることなどから年齢が推定できるそうです。
👆こちらの写真は頭部のアップ。
頭蓋骨のギザギザです。
頭蓋骨の縫合具合で年齢が推定できるんだそうです。
そして、このギザギザした部分が50歳くらいになるとはっきりしなくなるそう。
こちらははっきりしているので若い年代ということが分かるのです。
縄文人は、がっしりした体形だったようです。
第4次2号人骨復元シルエット【マダム・モリコ】
縄文時代の森ノ宮
遺跡からは、他の地域で作られた土器が見つかっています。
遠方との交流がなされていたんですね。
おどろきです。
弥生時代の森ノ宮
この遺跡では、縄文以降の出土品も見つかっています。
長い間、この地域には人が生活していたのですね。
古墳時代と歴史時代の森ノ宮
こちら人のあご(下顎)です。
なんと歯を抜いて磨き、装身具として使われていたのではないか推定されているのだそうです。
森ノ宮遺跡について
ここで、改めてこの遺跡のあらましについて。
展示室入口付近に以下のような説明がありました。
森ノ宮に日本の遠い地域から土器が運ばれているんですね。
森ノ宮遺跡のおもしろいところは、時間の経過とともに地形が変化して採れる食材も変わり、同じ遺跡の層によって埋まっているものが違うということ。
さらに縄文から江戸時代までの遺跡が同じ場所で発掘されていること。
縄文時代には台地には森があり、すぐ目の前には海が広がっていた。
江戸時代には大阪城の敷地内に属していたのです。
なんだかすごくないですか。
展示の写真パネルを撮影
展示室では、スタッフの方が森ノ宮遺跡について詳しくお話をしてくださいました。
質問にも答えていただきました。
たいへん勉強になりました。
森ノ宮ピロティーホールについて
ピロティーは高床式のことだった
森ノ宮ピロティホールは、大阪だと知っている人が多いと思います。
ですが、その名前については考えてみたことがありませんでした。
今回調べてみると、ピロティというのは高床のことなんですね。
遺跡保存のために高床式構造で建物を建ててあることが、この名前の由来だそう。
地下に埋まってしまってはいますが、遺跡が大切に残されているのはうれしいです。
それでは、以上です。
どうもありがとうございました。
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